
誕生
戦国時代の永禄4年(1561)11月1日、広家公は吉川家の三男として生を享けました。父は、中国地方のほぼ全域を治める毛利元就公の次男・吉川元春公です。弟の小早川隆景公と共に、力を合わせて毛利家を支える立場にありました。
広家公は11歳で初陣を飾るなど、父譲りの勇猛果敢な武将に育ちます。そして26歳のとき、父と兄を続けて病で亡し、吉川家の当主になりました。
天下人・豊臣秀吉の命により朝鮮出兵に参戦した折には、敵に包囲された蔚山城の加藤清正を正面突破して救援するという武功を打ち立てました。
関ケ原の合戦
秀吉の死後、徳川家康が政治力を増すなか、豊臣政権で政務を担う石田三成ら(西軍)と家康が率いる勢力(東軍)との対立が表面化。その状況下で毛利家当主・毛利輝元公は慶長5年(1600)7月、三成の求めに応じて大坂城に入りました。このまま合戦になれば、西軍は敗北し、毛利家の存続は危うくなります。
そこで広家公は、徳川家に忠義を示し、毛利家の領土安堵の約束を徳川側と交わしました。9月14日のことでした。
その翌朝、関ケ原の戦いが勃発。両軍が激しくもみ合うなか、吉川軍は毛利軍の先頭にいながらも一歩も動かず、その後方に在陣していた毛利軍は、今かと出撃を待つしかありませんでした。
結局、西軍の小早川秀秋による裏切りもあり、合戦は東軍の勝利で終結しました。
その後、輝元公が西軍の総大将として積極的に関わっていたことが判明すると、毛利家は周防長門二国(現・山口県)への減封となりました。そして吉川家には、東の防衛の要として、現在の岩国・柳井地域が、毛利家より与えられました。
岩国・和木・柳井 発展の礎
岩国・柳井への入封後、広家公は現在の横山を政治の中心とし、錦見での城下町の建設を開始しました。そして土地の土木工事、岩国城の築城、干拓による新田開発、法令の制定など…、地域の政治・経済や暮らしの環境を整備していきました。それらは岩国・柳井地域が発展する礎になっています。
広家公は通津に隠居した後、寛永2年(1625)9月21日(陰暦)、65歳の生涯を閉じました。
その人生は祖父と父の教えに導かれ、宗家・毛利を守るために費やされました。その毛利家は後に、明治維新の中心となり、近代日本の発展に大きく貢献することになったのです。