
誕生
戦国時代、織田信長が頭角を現しはじめたころ、永禄4年(1561)に吉川広家は吉川家の三男として生を受けました。中国地方のほぼ全域を治めるに至った大名・毛利元就公を祖父に持ち、その元就公の次男で、吉川家を相続した吉川元春を父に持ちます。
父・元春は弟の小早川隆景(元就公の三男)と共に「毛利両川」と呼ばれ、力を合わせて毛利家を支える立場にありました。そんな父の影響を受け、広家にも早くから毛利家を支える心構えが育まれていきました。
吉川家当主となる
幼少から青年期までは、自由奔放な振る舞いに父・元春から叱責を受けることもありましたが、わずか19歳で初陣を飾るなど、
父譲りの勇猛果敢な武将に育ちました。
織田信長は天下統一を目指して中国地方へ進出。本能寺の変により自害すると、豊臣秀吉が天下人となり、
吉川家は毛利家と共に豊臣家の旗下に入りました。
そして、秀吉の命により、九州征伐に加わりますが、その途上、父・元春が病死。翌年には兄・元長公が死去。広家は兄の遺言により、26歳で吉川家の当主になりました。
豊臣秀吉の死
天下統一を成した秀吉は大陸侵攻に乗り出し、朝鮮に出兵しました。広家公も毛利輝元公や叔父の小早川隆景公と共に朝鮮での戦に加わりました。広家公は勇猛な奇襲攻撃により、窮地に立っていた加藤清正を救うなど、活躍しています。
なお、二度にわたる朝鮮出兵のなか、前線で苦戦する武断派と秀吉の近くで政務を担う奉行衆の間に亀裂が生じ、秀吉の病死により、さらにその溝は深まりました。
武断派が慕う徳川家康。奉行衆の中心には石田三成。両者の対立は激化し、事態はいよいよ天下分け目の「関ケ原の戦い」へと展開するのでした。
徳川家康との約束
徳川家康が率いる東軍と石田三成を中心とする西軍の戦い。
毛利家は西軍にあって、当主・毛利輝元公は大坂城で豊臣家を継いだ豊臣秀頼を守る役割を担っていました。
広家公は当初から東軍の優勢を予測。このまま戦になれば、西軍は敗北し、毛利家は領土を失うばかりか、お家断絶となることを確信していました。そこで広家公は、密使により徳川家康と内通し、ある約束を取り付けました。
「毛利家は徳川家に忠節を誓い、決して弓を引くことはない。よって、毛利家の領土は安堵する」
この和議が成立したのは、実に関ケ原の戦いの前日のことでした。
関ケ原の戦い
慶長5年(1600)9月15日早朝、関ケ原の戦いが始まりました。
両軍一進一退を繰り返すなか、広家公率いる吉川軍は毛利軍の先頭に立ちながら、動こうとしません。吉川軍の後ろで、毛利軍を率いる毛利秀元はイライラして出撃を待っています。その後方の長宗我部軍から、出陣の催促が来ても「今は兵に飯を食わせているところだ」と追い返すのが関の山でした。
結局、吉川軍は動かず、毛利軍も動くことはできず、西軍から東軍への裏切りもあり、戦いは東軍の勝利で終わりました。
ところが、戦後処理の過程で、毛利輝元公が西軍の総大将として積極的に動いていたという証拠が見つかると、毛利家の所領安堵の約束は、一旦は覆されました。しかし、広家公の必死の申し立てにより、毛利家は周防長門の二国が与えられることなりました。吉川家はその東端の地、現在の岩国・柳井の3万石(後に6万石)を拝領しました。
岩国・柳井発展の礎
岩国・柳井への入封後、広家公は現在の横山・錦見を本拠地と定めて、城下町の建設に当たりました。錦川の湿地帯だった土地の土木工事、岩国城の築城、浅瀬の干拓による新田開発、そして「家中法度」などの法令の制定など…。
幕府からの江戸城普請の要請にも応じながらも、地域の政治・経済や暮らしの環境を整備していきました。それは、現在の岩国・柳井地域発展への礎になっています。
広家公の最期
広家公は55歳で通津に隠居した後、寛永2年(1625)9月21日、65歳の生涯を閉じました。
その人生は祖父と父の教えに導かれ、宗家・毛利を守るために費やされました。
命をかけて守った毛利家はその後、明治維新の中心となり、近代日本の誕生に大きく貢献することになります。そのことを思うとき、広家公は岩国・柳井のみならず、日本全体の発展にも寄与した名君と言えるでしょう。